キノコパワー

基本ネタバレ注意

その名で呼ぶことの意味『ミツバチと私』

 

フランスから母の故郷であるスペインにやってきた子どもたち。8歳の末っ子は、親から与えられた名前とは違う「ココ」と名乗ることがあり、それを両親に知られたくないようだ。出生時の性別に違和を抱きながらも、それが世間や両親に理解されないものであると幼いながらに察知し、自分がどんな状態にあるかもわからず、1人で思い悩んでいるのが、この作品の主人公である。

8歳というまだ幼い年齢のために、自分の主張が大人に聞き入れられづらいということを、この子はよくわかっている。母親は夫との関係の破綻を予期して、若い頃に中断した芸術活動を再開するための作品作りに追い立てられるように取り組んでおり、その人生にどんな葛藤があったのかを想像させるものの、末っ子の悩みを落ち着いて聞いてくれるような状態ではない。祖母は、芸術家だった亡き夫を支えるためにそうならざるを得なかったのか、規範意識の強い人で、孫の性別違和を理解する余地はなさそうだ。

そこで主人公が少しずつ自分の望みをさらけ出す相手に選ぶのが、大叔母や大叔母の養蜂場で出会った同年代の友達である。目線が等しい子ども相手になら、大人には言えない秘密を打ち明けられるというのは、自分が子どもだった頃を思い返しても、納得感のある展開である。しかもその子は、これまで家や学校で「男の子」という記号をつけられてきた主人公の姿を知らない。まっさらな状態で関係をスタートさせられるからこそ、ありのままの自分を見せることができたのだと思う。

一方、大人であり親族でありながら、主人公の葛藤にアプローチすることのできた大叔母の存在は、子どもたち、そして大人も含む性別違和を抱えた人々にどう接するべきなのか、1つのヒントをくれる。大叔母は主人公を否定しない。そして主人公もそれをよくわかっている。だから、ほかの人には言えないことも打ち明けてもらうことができ、理解者になることができたのだ。

大叔母の説得により母も主人公の性別違和に歩み寄るようになるが、母や大叔母の見えないところで主人公は傷つき、張り詰めていた糸が切れるように限界を迎え、姿を消してしまう。

人を大勢呼ぶパーティーでそれは起こるのだが、フォーマルな場での装いには色濃くジェンダー規範が反映されていて、バイナリーな外見のどちらかを否応なく選ばされる。その残酷さは性別違和を抱える人の多くが経験していることなのではないかと思う。主人公は「男」か「女」のどちらかの装いを選ばなくてはいけなくなり、最初は母親に寄り添われながら女性的な衣服を選ぶのだが、周囲の視線に耐え切れなくなり男性的な衣服に着替える。しかしそこで、ずっと耐えてきた性別違和が限界に達してしまうのだ。

姿を消した主人公を探して、パーティーの参列者たちは森を彷徨う。呼ぶ名前は出生時に与えられた「男性」の名前である。しかし主人公と年の近い兄が、意を決したように違った名前を口にする。以前、幼いきょうだいが「そう呼ばれたい」と小さな声で願った名前を覚えていたのだ。家族の中でも目線の近い兄には末っ子の苦しみや悩みが、姿を消してしまった理由が、見えていたのである。母親も続いて叫ぶ。「ルシア」。そう呼ぶ人たちは、主人公の性別違和を否定せず、本人の望むあり方を受け入れる覚悟を決めているのだと思った。

この終盤のシーンがとてもよくて記憶に残った。出生時に与えられた性別に違和を抱いて、自分の意思で名前を変えた人が、その名前を呼ばれること(出生時の性別によってつけられた名前で呼ばれないこと)で、どれほど肯定されるのか、安心できるのか、ということを強く印象付けるシーンだった。

トランスジェンダーの子どもを捉えた映画はほかに『トムボーイ』『リトル・ガール』(未見)などがあるが、今作は「当事者の心を守るために、周囲はどのように行動するべきか」を丁寧に考えていて、当事者やアライ以外にも広く見られて欲しい作品だと思う。