キノコパワー

基本ネタバレ注意

家父長制モンスターをイ・ビョンホンが演じる『コンクリート・ユートピア』

韓国・ソウルを突如襲った大災害。都市は一瞬にして廃墟と化したが、まるで奇跡のように崩落せず無傷で残ったマンションがあった。当然、生存者たちは安全を求めてそこへ押し寄せる。既得権益を脅かされることを恐れた元の住人達は、自分たちに有利な状況を確保するために1人の男性を主導者に引き立てるが、人を支配する喜びを覚えたその男は独裁を進め、選ばれた人々の「ユートピア」になるはずだったマンション内は地獄の様相を呈していく。

最初はどう見ても「町内会で面倒な役割を押しつけられた」冴えないオジサンにしか見えなかったイ・ビョンホンが、権力を得て狂気のモンスターに変わっていく迫真の演技は見ごたえがあった。映画の終盤で明らかになるが、どうやら崩壊前の世界で娘と妻に見放されていたらしい彼が、マンションという大きな共同体で「家長」として承認され、水を得た魚のように活き活きとし始めるのは、一種の「リベンジ」のようにも見える。「家長」の権利を濫用するオジサンと、それにより抑圧される若者や女性、こどもたちを描いているという点で、今作は家父長制を皮肉ったSF映画だと思うのだ。

主人公はマンションに元々住んでいる若い夫婦だ。夫のミンソン(パク・ソジュン)は妻を守らなければならないという義務感のもと、イ・ビョンホン演じる主導者のヨンタクによる独裁的なシステムの中に組み込まれ、外からやってくる生存者たちへの暴力的な排除に手を染めていく。一方で妻のミョンファ(パク・ボヨン)はヨンタクに懐疑的だ。ホモソーシャル的な共同体のあり方を、一歩引いたところから俯瞰して眺め、腐敗を暴き一石を投じる役割を女性たちが担っている。また「家長」による支配は女性だけでなく男性も「不幸」にすると描いており、命令を受けていたとはいえ一度暴力に手を染めてしまったミンソンに訪れる運命はなかなかシビアだ。

韓国のディザスター・ムービーといえば、その面白さを世界的に知らしめたのは2016年公開の『新感染 ファイナル・エクスプレス』だろう。コン・ユが演じた主人公は、娘と偶然居合わせた女性を守るため、自らの身を犠牲にする。この家父長制を下地としたヒロイックな展開は、作品の面白さは色あせないとしても、再鑑賞するたびに前時代のものになりつつあるように思える。今回の『コンクリートユートピア』が質の高いディザスター・ムービーでありながら、家父長制を批判的に描いたことで、その印象が確固たるものになった。

そういえば『新感染~』にも、既得権益をどうしても手放したくなくて、若者や老人などの社会的弱者を蹴落とし、自分だけ生き残ろうとする卑劣な中年男性が出てくる。そいつと対峙するのが前述した、家父長制的ヒーロー、“娘を守る父”としてのコン・ユだったのだが、『コンクリートユートピア』でイ・ビョンホンと対峙するのが“妻を守る夫”としてのパク・ソジュンではなく、“ホモソーシャルの中で消耗する夫を守ろうとする妻”であるのも、面白い対比だと思う。

最近は新年1発目に韓国のディザスター・ムービーが公開される状況が続いている(『新感染半島』2022年、『非常宣言』2023年、『コンクリートユートピア』2024年)ので、来年はどんな作品が登場するのか楽しみである。

8年前、そして今のガザ地区を思う『ガザ・サーフ・クラブ』

この映画を見るまで、現在イスラエルから攻撃を受けているパレスチナガザ地区が、イスラエルによって長年封鎖されてきたということを知らなかった。『ガザ・サーフ・クラブ』は、サーフボードの輸入すらままならないガザの海岸でサーフィンに興じる人々を映したドキュメンタリーだ。

フォーカスされる人物は主に3人。ガザのサーフィン文化をさらに盛り上げようとサーフショップの開店を目指している23歳のイブラヒームは、NPOで青少年支援をしているマシューの協力を得て、サーフボード製作技術を学ぶためハワイへ渡航する夢を叶える。42歳の漁師・アブーは「ガザ・サーフ・クラブ」の最年長で、若者たちにサーフィンを教えているが、一生のうちに自分が海外へ行ける日は訪れないのではないかと考えているようだ。

15歳の少女サバーフは、幼い頃に父親に連れられてサーフィンに行くのが好きだったが、成長して髪や肌を外で晒すことが難しくなり、サーフィンができなくなってしまった。目立つことが大好きな彼女は父の協力を得て沖までボートを出してもらい、スカーフを脱いで久しぶりにボードの上に立つ。抑圧されたガザ地区で、女性として二重の抑圧を受けるサバーフのささやかな抵抗を感じさせるシーンだ。陸に戻ったサバーフは年下の女子学生たちの称賛を一身に浴びる。

サバーフの描写を入れることで、このドキュメンタリーはより多面的な視点を確保しているように思った。ただでさえスポーツの世界は男性中心的/男性優位な状態になりやすい。そこから疎外された女性を捉えて、苦しい状況の中でもサーフィンを続けられる男性たちと対比させるのは、自由と平和を求める政治活動の中で女性の立場を取りこぼさず、余すことなく連帯しようという意思の表れなのではないか。

映画の製作は2016年だ。8年後の今、ガザ地区で起きている惨劇を受けて、日本で再上映が行われた。私が鑑賞した回では『ぼくの村は壁で囲まれた―パレスチナに生きる子どもたち』の著者であるノンフィクションライターの高橋真樹さんによるトークショーがあったが、司会進行を務めた配給会社の担当者のシリアスな表情が印象的だった。ここで話されていることは、今この時起こっている「喫緊の問題」なのだという実感が沸く。

トークショーの中で、映画に出てくる漁師のアブーは現在行方不明になっていると説明された。海を越えて遠くで起きているジェノサイドに、自分がどうやって関わることができるのか、考え始めると途方に暮れてしまうけれど、まずは知ること、そして知っている人を増やすことから始めていけるのかもしれない。これから、この映画に登場したサーファーたちの顔を、そして境遇を脳裏に思い返しながら、パレスチナに連帯することが私にはできるのだと思った。

その名で呼ぶことの意味『ミツバチと私』

 

フランスから母の故郷であるスペインにやってきた子どもたち。8歳の末っ子は、親から与えられた名前とは違う「ココ」と名乗ることがあり、それを両親に知られたくないようだ。出生時の性別に違和を抱きながらも、それが世間や両親に理解されないものであると幼いながらに察知し、自分がどんな状態にあるかもわからず、1人で思い悩んでいるのが、この作品の主人公である。

8歳というまだ幼い年齢のために、自分の主張が大人に聞き入れられづらいということを、この子はよくわかっている。母親は夫との関係の破綻を予期して、若い頃に中断した芸術活動を再開するための作品作りに追い立てられるように取り組んでおり、その人生にどんな葛藤があったのかを想像させるものの、末っ子の悩みを落ち着いて聞いてくれるような状態ではない。祖母は、芸術家だった亡き夫を支えるためにそうならざるを得なかったのか、規範意識の強い人で、孫の性別違和を理解する余地はなさそうだ。

そこで主人公が少しずつ自分の望みをさらけ出す相手に選ぶのが、大叔母や大叔母の養蜂場で出会った同年代の友達である。目線が等しい子ども相手になら、大人には言えない秘密を打ち明けられるというのは、自分が子どもだった頃を思い返しても、納得感のある展開である。しかもその子は、これまで家や学校で「男の子」という記号をつけられてきた主人公の姿を知らない。まっさらな状態で関係をスタートさせられるからこそ、ありのままの自分を見せることができたのだと思う。

一方、大人であり親族でありながら、主人公の葛藤にアプローチすることのできた大叔母の存在は、子どもたち、そして大人も含む性別違和を抱えた人々にどう接するべきなのか、1つのヒントをくれる。大叔母は主人公を否定しない。そして主人公もそれをよくわかっている。だから、ほかの人には言えないことも打ち明けてもらうことができ、理解者になることができたのだ。

大叔母の説得により母も主人公の性別違和に歩み寄るようになるが、母や大叔母の見えないところで主人公は傷つき、張り詰めていた糸が切れるように限界を迎え、姿を消してしまう。

人を大勢呼ぶパーティーでそれは起こるのだが、フォーマルな場での装いには色濃くジェンダー規範が反映されていて、バイナリーな外見のどちらかを否応なく選ばされる。その残酷さは性別違和を抱える人の多くが経験していることなのではないかと思う。主人公は「男」か「女」のどちらかの装いを選ばなくてはいけなくなり、最初は母親に寄り添われながら女性的な衣服を選ぶのだが、周囲の視線に耐え切れなくなり男性的な衣服に着替える。しかしそこで、ずっと耐えてきた性別違和が限界に達してしまうのだ。

姿を消した主人公を探して、パーティーの参列者たちは森を彷徨う。呼ぶ名前は出生時に与えられた「男性」の名前である。しかし主人公と年の近い兄が、意を決したように違った名前を口にする。以前、幼いきょうだいが「そう呼ばれたい」と小さな声で願った名前を覚えていたのだ。家族の中でも目線の近い兄には末っ子の苦しみや悩みが、姿を消してしまった理由が、見えていたのである。母親も続いて叫ぶ。「ルシア」。そう呼ぶ人たちは、主人公の性別違和を否定せず、本人の望むあり方を受け入れる覚悟を決めているのだと思った。

この終盤のシーンがとてもよくて記憶に残った。出生時に与えられた性別に違和を抱いて、自分の意思で名前を変えた人が、その名前を呼ばれること(出生時の性別によってつけられた名前で呼ばれないこと)で、どれほど肯定されるのか、安心できるのか、ということを強く印象付けるシーンだった。

トランスジェンダーの子どもを捉えた映画はほかに『トムボーイ』『リトル・ガール』(未見)などがあるが、今作は「当事者の心を守るために、周囲はどのように行動するべきか」を丁寧に考えていて、当事者やアライ以外にも広く見られて欲しい作品だと思う。